僕が関わっている一般社団法人に、「基金に出資してもらえるかもしれない」という話があります。
相手は有名な財団で、基金への出資の可否を審査をするにつき、いろいろとリクエストをしてきます。
その一つが社団内の理事構成などです。
簡単に言えば「理事会を設置しろ」と言ってきたのです。
理由は「その方が民主的な意思決定がなされることになるから」だそうです。
では、要求通りにしたとしましょう。
すると登記等で10万円以上の出費が必要になる見積もりとなりました。
理事会の設置は10万円もかけてやる価値があることなのでしょうか。
ちなみに、お金を使って理事会を設置したら、必ず出資してくれるならまだましです。
でも今回は、そのための審査のテーブルに乗せるために必要とのことです。
僕には無駄なお金に思えてなりません。
別に理事会を設置したところで、民主的な意思決定になる確証はありません。
理事会がなくても民主的な意思決定をする仕組みづくりはできるでしょう。
なんとも・・・
こんな感じで、公共的な立場の団体や人は形式を重視する傾向があります。
そのための無駄なお金や時間を勘定の外に置きます。
言ってしまえば、きれいごとばかりを先行させるのです。
商売や事業をやっている人間からするとこの感覚にはついていけません。
相手はこちらが頭を下げて、自分たちの言うとおりにするのは当然と言わんがばかりなのでしょうけど・・・
もっと事業者に寄り添ってもらえないものでしょうか。
10万円を生み出すのにどれだけの苦労があるのか想像もしないのでしょう。
同じお金を使わせるにしても、意味あるものに使わせたいという発想もないはずです。
たまたま僕が関わっているので、理事会について柔軟な取り扱いをしてもらえるように意見を表明しています。
でも、世の国家資格で飯を食べている人間も、そちらのお役所や公共団体の感覚の人間ばかりがあふれています。
不都合なことは「ルールだから」ではねのけます。
こちらの課題やニーズに合わせてやり方を変えることなく、杓子定規の応対をします。
そのくせ社会正義みたいなことを語るのは大好きで・・・
事業者にもっと寄り添ってあげていい時代なんだと思います。
お金や雇用や価値を生み出す人を、もっと励まし、支えなければ。